責任のありか

すべてを疑うか、すべてを信ずるかは、二つとも都合のよい解決法である、どちらでも我々は反省しないですむからである。

~ ボアンカレ(哲学者) ~

すべてを疑うということと、すべてを信じるということは、とても似ています。
一見、正反対のように見えますが、どちらにも共通していることがあるのです。

それは、責任のありか

例えば、何かの物事が失敗したとしましょう。
通常ならここで反省をし、原因究明や打開策などを探します。
自分の力で失敗を乗り越えようとする以上は、避けては通れない道だからです。

しかしながら、すべてを疑っている人すべてを信じている人は違います。

「こうなると思っていたんだ。絶対、上手くいくわけないもの」
「どうして失敗したの?信じてたのにショック」

立場は違うものの、言っている内容が似ていることに気がついたでしょうか?
そう、どちらも「自分に責任はない」と明言しているのです。

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物事の責任を他人に任せるのは、とても楽なことです。
失敗した責任は、自分以外の誰かにあるとすれば、責められることもありません

でも、果たしてそれで本当にいいのでしょうか?

どんなに他人に責任を取らせていたとしても、必ず自分で自分の責任を負わなければいけない時期が来ます。
その時、他人任せだった人は、ひどく狼狽し、責任を押し付けられる人をさがすことになるでしょう。

どんな事柄でも、自分の頭で考えるということを放棄してはいけません
考えることは疲れると思うかもしれませんが、何も考えずに物事がうまくいくことはまずあり得ないのです。

人間は環境に慣れていくものです。

考える癖がつけば、考えることが苦にならなくなります
反対に、考えない癖がついてしまうと、考えることが苦痛になっていくのです。

自分の心にその物事を入れて、その上で決めることが出来たのなら、その判断はもうあなた自身の判断になるのです。
人生は決断の連続です。たとえどんな結果になろうとも、決断することを怖がってはいけません。